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声が聞きたかった。
古い病院の中に置かれた公衆電話の前。
スティーブの声を聞いた途端、ディアンさんの声が無性に聞きたくなった。
憎まれている事も、嫌われている事も解っていたけれど。
冷たく皮肉な声しか聞いた事はないけれど。
それでも・・・。
くしゃくしゃなメモを眺めて、随分迷って。
声が聞けたら、それで良かった。
でも・・・。
『ハロー?』
綺麗なソプラノだった。
もう、あの携帯は手放したのだろうか。
そうかもしれない。
けれど、そうでないのかもしれない。
何も言えず、受話器を置いた。
これが当り前の現実なのだと、自分に言い聞かせた。
すべては過去で、終わった事なのだ。
もしも。
もしも子供が産まれていたら。
少しは彼に似てくれただろうか・・・。
真っ直ぐなプラチナブロンドと翠の瞳。
白人特有の肌。
きっと彼に似たら、それはそれは美しい子供だっただろう。
男の子だったのだろうか。
それとも、女の子だったのだろうか。
三か月だった。
きっと、あの夜の子だ。
雪が降ってた。
粉雪だった。
積もらない雪。
朝には融けて消えてしまう雪。
まるで私のような雪・・・。
『約束します。彼が亡くなった後も。貴女には何不自由のない生活を保障します。』
知ってた? ディアンさん。
私、貧乏だったけど、不自由なんてしてなかったよ。
『私に出来る事でしたら、何でも言ってください。衣食住、何でも。欲しい物、必要な物、
すべて揃えます。ああ、カードを作らせました。使用限度はありませんので、ご自由に。』
でも、独りなんだよね。
ウィンが死んだら、私はひとりぽっちになるんだよね。
雪が降ってた。
出窓にはスティーブが買ってくれた小さな植物。
偶然、信号で止まった黒塗りのリムジンの窓から見つけた小さな花屋。
その店の前に色々な植物と一緒に置かれていた。
1コ、480円。
ただ見ていただけなのに、後日、スティーブがプレゼントしてくれた。
嬉しかった。
スティーブだけは私を見ていてくれる。
理解してくれる。
私には、それで充分だった。
外を眺めたまま、懸命に言葉を探した。
ディアンさんと話す時、私はいつも言葉を探し、選び、口にする。
何もいりません。
すべてが終わったら。
何もかも終わったら、また仕事を探します。
一からやり直すつもりです。
大丈夫です。
独りで生きる事には慣れてますから。
『嫌味な貴女(ひと)ですね。まあ、こちらに非があるのですから構いませんが。
遠慮してどうします。これからの人生は長いですよ。自由に楽しく生きた方が得だ。
そうは思いませんか?』
私は・・・。
『すぐに気持ちなど変わりますよ。今は、贅沢に慣れていないだけだ。
慣れてしまったら、もう手放せなくなる。自己犠牲の精神など、何の価値もない。』
淡々と言い捨てる。
その翠の瞳には蔑み以外何も映さない。
私の事など、見たくはないだろう。
昨夜のウィンは酷かった。
まだ、痛む。
心も躰もバラバラになりそう。
『寒いですか?』
痛む躰を抱きしめた私に、彼は意味深な視線を向けた。
スティーブ・・・スティーブ・・・早く帰って来て。
怖いよ。痛いよ。苦しいよ。
スティーブ。
私が、壊されていく・・・。
声音 Ⅳ 。
スティーブとの連絡が途絶えて十日が過ぎた。
未だ、何処で何をしているのか解らない。
仕事も放り出して、と言っても、私達の場合は会長職のようなもので、余程重要な案件
でもない限り自ら動く必要はない。
それでも、これほど長く仕事から離れるなど彼らしくない事は確かだ。
ウィンの養子であった私達は、彼の死と共に莫大な財産と多くの会社を引き継いだ。
会社の殆どは筆頭株主という立場だけを残して手放し、別荘を始めとする世界中に散ら
ばる財産も必要最低限の物だけを残し現金化した。
財産の整理はウィンが生前から始めていたが、何しろ莫大過ぎる。各国の法律も絡む
大仕事だっただけに、弁護士だけで百人を超えた。その報酬だけでジェット機が何機購
入出来ただろう。
尤も、そんな些細な事など私達にはどうでも良かったが。
とにかく、日本へ来てからの私達は多忙だった。
それをひた隠しにして、ウィンと残された時間を共有していた。
多くの秘密を抱えた生活は大変だったが、それでも充実した毎日だった。
璃羽と、共に暮らし始めるまでは・・・。
いつも、飯田からの電話は唐突だ。
だが、今回ほど待ち望んだコールはなかっただろう。
けれど、この電話が私を地獄に突き落した。
何処までも運命の女神は、私に背を向けたいらしい。
「飯田・・・飯田なのか。」
『はい。』
「今、何処に・・・。」
『スティーブの依頼で地方に。』
「・・・何処だ。」
『後日、スティーブから連絡があるかと思います。』
「・・・。」
『ディアン?』
「姫は・・・無事か。」
『はい。』
やはり、あの電話は姫だったのか・・・。
あの日、あの時。偶然などあり得ない。
淡々とした飯田の声が、何処か物悲しく聞こえたのは空耳ではなかっただろう。
「・・・解った・・・スティーブに、連絡を待ってると伝えてくれ。携帯に連絡しても、アイツ
出ない。』
『はい。』
「それで。用件は?」
『一年前の・・・あの産婦人科の話ですが・・・。』
今になって、なんだ・・・?
産婦人科とは、姫が私の子供を中絶した病院の事か?
ウィンはがん治療の後遺症で子供が出来ない。
姫の子供は、間違いなく私の子だ。
「・・・。」
『ひとつ、貴方にだけ言ってない事が。』
「な・・・にを・・・。」
『璃羽様の子宮に異常があったそうです。無茶な性交の傷の他に・・・恐らく・・・ウィン
の・・・抗がん剤の影響ではないかと思われる後遺症が・・・。』
「・・・。」
『本人にも、伝えていないそうです。後日、必ず来院するよう言ったのに、現れなかった
そうですから・・・。』
「・・・それで・・・。」
『手術が必要になるだろう、と。』
『精密検査の結果。もしも状態が悪ければ、子宮は・・・全摘だそうです・・・。』
知らなかった真実。
知りたくなかった現実。
これは、彼女を泣かせ続けた罰だ・・・。
長袖のTシャツから、秋雨の淋しい匂いがする。
丁度良いサイズだったはずのデニムパンツは、ここ数日ですっかり緩くなってしまった。
洗濯の時間もなくて、脱いだツナギはもう三日も着続けている。
雨の匂いと、幽かな家畜のにおい。
慣れてしまった暖かな日常に、常に魔物が潜んでいる事を忘れていた。
やっと見つけた居場所だった。
自分が生きていて良い場所なのだと、初めて思えた。
暖かな家族の時間。
部外者だけど、他人だけど、傍で見ていられる事が嬉しかった。
初めて失いたくないと切実に思った。
例え、その居場所に居られなくなったとしても。
その場所だけは、確かにあるのだと信じたい。
初めて望んだ。
小さな幸せ。
それを与えてくれた、松宮家の人々。
遠く離れてしまっても、決して忘れる事はないだろう。
小さな窓の外。
とうとう雪が降り出した。
少し、寒い。
彼は来てくれるだろうか・・・。
いや、きっとスティーブなら来てくれる。
映画に出て来る軍人さんのような風貌で、いつも気取らない雰囲気が好きだった。
背が高くって、逞しくって、私なんて片腕で簡単に抱き上げてしまって。
濃い金色の髪は短く刈り上げて、碧い眼はいつも人懐っこく優しそうに笑ってた。
「戦闘機に乗りたくて軍隊に入った事があるんだ。手っ取り早くライセンスを取るなら空軍
だと思って。」
「調理師のライセンスも持ってる。和食、洋食、中華、何でも作れる。珍しい食材を探して
アマゾンにまで行ったんだ。酷い目にあったけど、楽しかったよ。」
いつもとんでもない話をして私を慰めてくれた。
傷つけられて泣いていると、眠りに就くまでずっと傍にいてくれた。
ゴメンネ。止められなくて、ゴメンネ。
耳元で囁く声は、いつも苦渋に満ちていて・・・。
ずっと私を支えてくれた。
どんな時も傍にいてくれた。
彼がいなかったら、きっと私は気が狂っていただろう。
求められるばかりの日々。
奪われるばかりの心と躰。
産まれたくて生まれて来た訳じゃないけど。
生きたくて死ななかった訳じゃないけど。
それでも、息をしている事すら辛かった毎日。
姫ちゃん。
そう呼ばれるだけで、安心出来た。
結局私は、逃げ出す事で裏切ってしまったけれど。
どうしてスティーブじゃなかったんだろう・・・。
どうしてディアンさんだったんだろう・・・。
バカだ・・・私。
絶対、叶わない想いだったのに。
逃げ出す事しか出来なかった。
お腹に宿った小さな命。
泣きながら諦めた。
産む訳にはいかなかった。
私の子供など、彼は望まない。
嫌われてるって解ってた。
憎まれてるって知ってた。
私を蔑む翠色の瞳が怖かった。
キスひとつしてくれないひと。
ただの排泄処理だって解ってた。
それでも、眺めていたかった。
バカだから、私。
だって・・・。
バカなんだもの、私。
不器用な恋をしたものだ。
気づいた時には遅かった。
まさか、ディアンがウィンのモノに手を出すとは思ってもいなかった。
気づいた時、姫ちゃんはボロボロだった。
オレより先に、ウィンが気づいてしまったからだ。
ウィンはディアンを責めなかった。
けれど、ディアンに見せつけるように姫ちゃんを犯すようになった。
あの頃には、もう。
ウィンの想いが愛情なのか、ただの独占欲なのか解らなくなっていて。
オレ自身、戸惑うばかりの毎日だった。
ウィンには時間がなかった。
彼の命には限りがあった。
全身に転移したガンが彼を蝕み続けていた。
繰り返された手術のせいで、満身創痍の状態だった。
その現実を見せつけられて、姫ちゃんは逃げ出す事を諦めた。
ずっと傍にいると約束してくれた。
それなのに
死に逝く者の最後の我儘だったのか。
姫ちゃんへの想いは暴走し、愛情は凶器に変わった。
その上、ディアンとの一件。
集中攻撃を受けたのは姫ちゃんだった。
嫉妬だったのだろうか。
暴力ではなく、乱暴だった。
ウィンは姫ちゃんを乱暴に抱いて、その華奢な躰に消えない痕をつけ続けたのだ。
噛み付くように口付て、乱暴に吸いついて、時折血が流れても決して手加減をしない。
そうする事で、姫ちゃんがディアンを諦めると思っていたのだろうか。
最初から姫ちゃんは何も望んでいなかったのに。
そんな事、ウィンが一番よく知っていたはずなのに。
オレがその事に気づいたのは、飯田がそっと姫ちゃんに渡した傷薬を見つけたからだ。
飯田を問い詰めて、やっと吐かせた時、彼は言った。
「璃羽さまを護れるのですか?」と。
姫ちゃんは飯田に言ったのだという。
「もしかしたら、私も天国に逝けるかもしれない。だから、スティーブには黙ってて。」
馬鹿な事を。
何て馬鹿な約束を。
あろう事か、ウィンは姫ちゃんに約束していたのだ。
死ぬ時は、一緒に連れてゆく
狂ってる・・・。
初めて、ウィンを憎いと思った。
時を待てなかったディアンの馬鹿を呪った。
そして、姫ちゃんの愚かさが哀しかった。
けれど、誰より憎かったのは、呪わしかったのは、哀しかったのは。
一番の馬鹿は、オレだ・・・。
こんなに傍にいたのに。
誰よりも彼らを見ていた筈なのに。
何より無力な自分が、赦せなかった。
「スティーブ。そろそろ飛行場に着きます。」
「ああ。解った。」
「ディアンに・・・連絡は?」
「必要ない。時が来れば、オレから連絡する。」
「解りました。」
今は、ただ。
姫ちゃんの無事をこの手で確かめたい。
すべては、それからだ。
並ぶ小さな椅子のひとつに座り、私は独り考えている。
集中治療室に入れるのは家族だけだ。
今は和己さんのお母さん志乃さんと、お父さんの和夫さんが付き添っている。
和己さんと違ってご両親は共に小柄な方だ。
そして、咲おばあちゃんはもっと小さい。
小さな背中を丸めて、いつもぬか床を混ぜていたっけ。
和己さんには一つ年上のお姉さんがいる。
今は金策の為、嫁ぎ先に頭を下げに行っている。
脳溢血・・・。
保険が利いても、治療費は莫大だ。
後遺症が残れば、更に出費は増えるだろう。
小さな家族で営む農家は、それでなくても生活は苦しい。
その上、最近妙に張り切って働き始めた和己さんの為に、お父さんは新しいトラクターを
買った。
そのローンも丸々残っている。
三年前には集中豪雨の被害に遭い、その時に直したビニールハウスのローンだってある。
ふと気付くと、隣に和己さんが座ってた。
疲れた顔をしてる。
当たり前だ。
自宅から病院まで片道3時間も掛かる。
それなのに、この三日、毎日通っているのだ。家畜がいるから。死なせる訳にはいかない。
まだ家畜の世話が出来ない私が手伝っても、和己さんの負担は変わらない。
その上、毎日往復6時間。精神的にも肉体的にも、もう、限界だ。
「大丈夫だよ。いざとなったら、俺が出稼ぎに行くよ。」
「・・・。」
「ばぁちゃんの命には代えられないモンなぁ。」
「和己さん。」
「そんなに悩まないでくれよ。りうのせいじゃないんだから。」
「でも。」
「りうがウチに来る前からさ、ばぁちゃん、時々頭痛いって言ってたんだ。頭が重くて痛いっ
て。きっと、その時病院に連れて行けば・・・こんな事にならなかった。ごめん・・・。
ばぁちゃんの事で、りうにこんな辛い思いさせて。」
疲れと、これから先の不安で、和己さんの声は小さく震えていた。
和己さんはおばあちゃん子だ。お姉さんの典子さんと二人。忙しいお母さんに代わって咲
おばあちゃんが育てたのだという。
だから、二人ともとても素朴で優しい。
「二人とも、大丈夫?」
その声に見上げると、大きな荷物を持った可愛らしい女性が立っていた。
和己さんの幼馴染、大垣美幸さんだ。
町では一番大きな農家の一人娘で、美幸さんのお父さんはレストランやチーズ工房など手
広く経営しているのだという。
ただ、経営状態はあまり良くないと青年会議所行われた集まりで聞いた事がある。
私と同じ年だというから、27歳・・・いや、28歳になったばかりだったか。私より半年早く生まれ
ているはずだ。
和己さんより一歳年下。
そういえば・・・和己さんはスティーブ達と同じ年だ。29歳。農家の人は結婚が遅いというけど、
適齢期だろう。
周囲の人たちは、いずれこの二人が結婚すると思っている。
私も、お似合いだと思う。
「はい。お弁当。二人とも食べてないでしょ?」
お嬢様育ちだけあって、背中まである茶色の髪はクルクルに巻かれ、身につけているのは
ブランド物ばかりだ。
我儘だけど、人を気遣う事の出来る優しい人。
「やだ。どうしたの? りうったらずぶ濡れじゃない。上のツナギ脱いで来たら? 中、ちゃんと
着てるんでしょ?」
「はい・・・。」
「まさか、この冷たい雨の中、外にでもいたの?」
「・・・。」
「風邪でもひいたら、結局和己に迷惑掛けちゃうわよ?」
「はい。」
「そういえば・・・りう。雨の中、何してたんだ?」
「・・・。」
「変なコねぇ。ほら、早く脱いで来て。寒いでしょ?」
「はい。じゃあ・・・ちょっと行ってきます。」
二人の視線に送られて席を立った。
寒さは感じなかったが、心に鉛のような重さがある。
スティーブに連絡した以上、あの世界に連れ戻されるだろう。
自然と、濡れた躰が熱を帯びる。
そして、躰の奥で疼く痛み。
エレベーターの横にある小さな休憩室。
集中治療室を利用している患者さんの家族が休む為の部屋だ。
作業用に買った少し大きいサイズのツナギを脱ぐと、私は硬い床に座り込んだ。
飯田との連絡がつかない。
やはり、あの電話は彼女からだったのか。
この一年半。
一度も連絡をして来なかったのに、一体、何があったというのか。
「くそっ・・・。」
迂闊だった。
彼女からの電話を、よりによって女に受け取らせるなんて・・・。
いつも泣いてばかりいた。
また、泣かせてしまったのか。
解らない。
一体、何があった?
小さな教会の片隅で、狭い部屋を間借りして暮らしていた女。
最初は、なぜ、こんな女にウィンが拘るのかが解らなかった。
小柄で、華奢で、無口で、暗くて。
確かに綺麗ではあったが、いつも俯いていて。
時折笑っても、それは無理やり貼り付けた作り笑いで。
いつもいつも人の顔色を窺って。
「趣味が悪すぎる。」
スティーブと二人きりになると、決まって私は腹を立てていた。
「ウィンは何を考えているのか。」
少しずつ彼女の置かれていた立場を理解しても、結局は同じ。
「あんな女の何処が良いと言うんだ。」
三年前の私は、いつもいつも苛立っていた。
ウィンに言いよって来る女など掃いて捨てるほどいた。
無論、財産目当てが大多数だろうが、例え財産など無くても彼なら女に不自由などしな
かったはずだ。
実際、彼がベッドに呼んでいた女達は美女ばかりだったし、頭も良く、立場を弁えていた。
それなのに。
「可愛いじゃないか。一生懸命言葉を選ぶのは、きっと彼女のクセだろう。」
「そんな事を言ってるんじゃない。あの引き攣った笑い方。ウィンが何かプレゼントしようと
する度に「私には似合わない」だの「贅沢なものをもらっても困るし」だの。少しはウィンの
立場になって欲しいものだ。」
「姫ちゃんは、そういう生活しかした事がない。仕方ないだろう。ウィンがそれを一番よく解っ
てるんだ。だから少し考えてプレゼントすればいいのに、ウィンは高価な物ばかり贈りたが
る。姫ちゃんばかり責めるなよ。」
「だから腹が立つ。ウィンは何を考えているんだ。」
「やれやれ。いつもクールなお前とは思えないな。どうした。」
「ふん。私はお前ほど寛容には出来てない。悪かったな。」
「くっくっくっ・・・。」
「なんだ?」
「姫ちゃんは不器用なんだよ。上手く人と接する事が出来ないんだ。」
「だから、そういう問題じゃ・・・。なんだ?」
「なんか・・・好きなコにちょっかい出すいじめっ子みたいだぞ。お前。」
「なんでそうなる。」
「はは。姫ちゃんは優し過ぎるんだよ。そして、自分に存在価値を認めていない。」
「・・・。」
「居場所がないんじゃなくて、最初から諦めてる。自分には居場所なんてないんだ、って。
そういう環境で育ったから、優しくされるとどうして良いのか解らないし、どう応えていいの
か解らない。」
「だからって、あの引き攣った笑顔はないだろう。いかにも作り笑いだ。せめて愛想笑い
くらい・・・。」
「笑い方が解らないんだ。知らないんだよ。だからタイミングも合わない。結局中途半端な
笑顔になって、それがお前には気に入らない。」
「随分と・・・物解りがいいな。」
「そりゃあな。お前とは長い付き合いだし、姫ちゃんも大事だし。」
いつもいつも苛立つ私と、それを宥めるスティーブ。
けれど、スティーブの本質を見る眼は確かだったのだ。
ある時。
彼女がポツリと言った。
『この世に産まれてはならない人間が、この世で生き続けるのは辛いんですよ・・・。』
彼女のすべては、ここから始まっているのだと痛感した。
気がつけば、彼女に名を呼ばれるのを待っている。
ウィンやスティーブのように、私を呼んで欲しかった。
彼女は、ウィンと呼び、スティーブと呼んでも、私の名だけは、
「ディアンさん。」
と呼んだ。
凍える躰を震わせながら、私は彼を待っている。
病院の建物は古く、待合室から外が丸見えで、外来の患者さん達が私を不審そうに眺め
見ている。
元より、私は不審人物だ。
この町にも、今の居住地にも、本来私は存在しない。
ある日、突然。
ふらりと現れた女。
小さな旅行鞄ひとつで、ふらふらと行くあてもなく流れていた不審者。
小さな、今にも倒壊しそうな市役所の掲示板で、アルバイト募集の張り紙を見つけ、諦め
半分で面接に行った。
酪農と農業の町。
そこから、更に山近くへ。
家族五人で営む小さな農家が点在する集落。
合併する前は、山村だったという。
突然働かせてくれと現れた若い女に、素朴な彼らは何を思ったのだろう。
「りうっ!?」
「和己さん・・・。」
「何やってんだっ。ずぶ濡れじゃないかっ!!」
「・・・咲おばあちゃんは・・・。」
「・・・さっき、頭がい骨の一部を外した。脳の腫れが少しでもひけばいいけど・・・。」
「ごめんなさい。」
「りうの所為じゃないだろっ。医者だって言ってた。脚立から落ちたのだって、ばぁちゃんが
勝手に。」
「ううん・・・私が・・・。私が、咲おばあちゃんの漬けた梅を食べたいなんて言ったから・・・。」
「だからそれはっ。」
「私が食べたいなんて言わなければ・・・おばあちゃんは納屋になんて行かなかった・・・。」
「りう・・・。」
咲おばあちゃん。
何処にも行くあてのない私を家に置いてくれた。
家族が反対したのに。
私を働かせてくれて、美味しいご飯を食べさせてくれて。
それなのに。
私と和己さんの目の前で。
脚立から落ちた。
私さえ、おばあちゃんの漬けた梅が食べたいなんて言わなければ。
そうすれば、おばあちゃんが脚立に乗る事なんてなかったのに。
「医者が言ってたろ? 脚立から落ちたのが先か、脳溢血を起こしたのが先かなんて解ら
ないって。それに、俺だって納屋にいたんだ。りうだけのせいじゃないっ。」
「ごめんなさい・・・ごめ・・・なさ・・・。」
「とにかく、病室へ戻ろう。ばぁちゃんの意識が戻った時、りうが傍にいなかったら泣くぞ。」
「・・・。」
「こんなに濡れて。ばぁちゃんにとってりうは本当の孫娘より可愛い存在なんだ。倒れたり
したらどうすんだよ。ほら。」
和己さん・・・。
こんな私に結婚しようと言ってくれた。
昔の事なんて何も聞かない、と。
優しい松宮家の人々
和己さんは、私には過ぎた人。
松宮家の人々は、私には過ぎた家族だ。
『これからもずっと、俺の傍にいてくれないか・・・。』
不器用なプロポーズ。
ゴメンナサイ。
それしか言えなかった。
私は和己さんと結婚できるような女じゃない。
『待ってるから。良い返事が聞けるまで、ずっと待ってる。』
そう言ってくれた。
嬉しかった。
でも。
ウィン・・・貴方に穿たれた楔が、今も私を束縛し続けている
この雨が雪に変わる前に、貴女の許に辿りつかなくては。
凍えた貴女の心を思うと、今はただ、抱き締めたい。
解っている。
貴女の心は、今はもう、何処にもない。
彼が、あの日、天国へと持ち去ってしまったから。
それでも、貴女はおれ達を頼ってくれた。
それだけで、いい。
お金がいるの。
私のせいで、咲おばあちゃんが。
助けたいの。
でも、ここじゃ助けられない。
死んじゃう。
スティーブ。
今更、こんな事頼むの厚かましいって解ってる。
でも。
助けて・・・助けてください。
お金は、一生働いて返す。
だから。
助けて、スティーブ。
ゴメンナサイ・・・ゴメンナサイ・・・。
厚かましいだなんて言わないで。
散々貴女を泣かせて傷つけたオレ達に『ゴメンナサイ』だなんて。
そんな言葉を言わせてしまうのは、きっとオレ達の罪。
泣かせて、傷つけて、苦しめて。
犯して穢してボロボロにして。
また、貴女を独りぽっちにしてしまった。
この罪を、どうやって貴女に償ったらいいのか。
だから頼っていいんだよ。
オレ達の許に、戻っておいで。
「スティーブ。」
「どうした?」
「すみません、実は・・・。」
「病院のヘリポートが使えない?」
「はい。救急ヘリ以外使えないそうです。」
「近くにヘリの降りられそうな場所は?」
「郊外に使われていない滑走路があります。」
「滑走路?」
「はい。農作物を運ぶ為に作られたそうですが・・・。」
「経費として割に合わない。」
「そのようです。今は観光客の遊覧飛行に使っているようです。」
「降りられるか? 病院までの時間は?」
「許可はとりました。病院までは車で一時間ほど。」
「ふぅ・・・なんて田舎だ。しかし、観光客と言わなかったか?」
「癒しの町として観光開発されたのはごく最近なのです。」
「癒し、ねぇ・・・病院の近くにホテルは?」
「街中にプリンセス・ホテルがあります。病院からだと、徒歩20分。」
「プリンセス・ホテル?」
「はい。まだ新しいですね。」
「そこの最上級は?」
「・・・と。と。・・・う。」
「なんだ?」
「プリンセス・スウィート・・・一泊14万・・・。」
「はぁっ?!」
「ち・・・地方の観光ホテルですから。お手頃価格といいますか・・・その・・・。」
「却下。」
「では、ヘリで30分ほどの場所に某ホテルがあります。」
「それ。しばらく滞在する。」
「はい。」
操縦席の隣でPCと睨み合う秘書・飯田。
日本での生活はすべて彼が支えてくれていると言っても過言ではない。
語学は堪能なオレ達だが、異国で生活するとなると話は別で、彼は三年前からずっと
オレ達を傍で見て来た。
気難しいディアンは別格として、口の堅い飯田は、姫ちゃんにとっても特別だった。
だから、姫ちゃんが行方不明になった時も、彼だけは居場所を知っているだろうとタカを
括っていて怒鳴られた。
思えば、温厚な飯田が怒鳴ったのは、後にも先にもこの時だけだった。
解ってる・・・。
解ってるよ、飯田。
お前にしてみれば、別れた娘と同じ年の姫ちゃんが男達に弄ばれている様を見続ける事
が、どれほど辛い事だったのか。
解ってて。
でも、止められなかった・・・。
罪は、償う。
何を犠牲にしても。
だから、早く。
早く、あの貴女(ひと)の許へ。
暗く、孤独な幼い日々にあって、半年だけの。
懐かしく温かな思い出。
あの日々を忘れた事など、一度もなかった。
ある日、突然現れた長身の青年。
灰色の髪と、同色の切れ長の眼。
宣教師として教会にやって来た彼は、その日から施設のスタッフとしても働き始めた。
貧しい施設では、人件費など掛けられない。
何より、人を雇っても長続きしないのだ。
心に大きな傷を持つ施設の孤児たちは、多かれ少なかれストレスを溜め、日々暴走
してしまう。
それは日常的なケンカであったり、イジメであったり、破壊衝動であったり。
叱れば反抗し、優しくすれば独占欲を出し、放っておけばイジける。
そんな職場で、雀の涙程度の給料の為に働く者など多くないのだ。
だから施設ではボランティアに頼り、宣教師に手伝ってもらい、施設を何とか維持して
いた。
彼も、最初は面食らったようだった。
日本の生活にも慣れていないのに、問題を抱えた子供たちの世話など厄介なだけだっ
ただろう。
それでも、根気強く子供たちに接し、驚くほど早く施設の生活に慣れていった。
もしかすると、彼の心にも何かしらの傷があったのかもしれない。
この頃の私には、知る術などなかったが。
だから、いつも独りでいる私に彼が興味を持ったのも、何処かに感じるものがあったの
だろう。
床に膝をついて尚、真上から見下ろして来る彼に、最初は怖いと思ったものだ。
けれど、片言の日本語で、一生懸命私に話しかけてくれた。笑い掛けてくれた。
初めてだった。
私という存在を。
誰かの付属品ではない私を見てくれたのは。
彼が、ウィンが初めてだったのだ。
それは、同情であっただろう。
憐みであった事も否めない。
泣く事も。笑う事も。怒る事も。
およそ喜怒哀楽という感情とは縁遠い世界で生活して来た私にとって、施設での生活
は決して楽しいものではなかった。
孤児達の陰湿なイジメは終わる事がなかったし、ウィンだとて、私一人に関わっている
訳ではない。
施設では、孤児たちを平等に扱うのが鉄則だ。
その鉄則が、守られていたかは怪しいものだが。
それでも、人との会話すら成り立たない私にとって、彼の声は大切なものだった。
「アレハ、サクラ?」
「うん・・・。」
「花ハ?」
「散ったの・・・。」
ウィンが施設にやって来た時、庭の大木は葉桜となっていた。
桜は散って、濃い緑が木陰を提供するだけの、私のお気に入りの場所。
「綺麗ダッタ?」
「うん。」
「見タカッタナ・・・。」
「来年も、咲くって・・・。神父さまが言ってた。」
「ソウ? 良カッタ。ジャ、来年ハ一緒ニ見ラレルネ。」
「・・・え・・・?」
「一緒ニ、見ヨウネ。」
「・・・。」
「綺麗ナサクラ。一緒ニ、見ヨウ。ネ?」
「うん。」
果たされなかった約束・・・。
半年後。
ウィンは突然いなくなった。
誰にも何も言わず。
いつもより早い初雪が、音もなく降った朝の事だった・・・。
「公衆電話・・・?」
それは、偶然の出来事だった。
鳴らないと解っている携帯。
それでも、充電を欠かした事はない。
この時もそうだった。
指先から滑り落ちた携帯。
簡単に壊れる物ではなかったが、念の為にと確認をした刹那の驚き。
着信歴に残る゛公衆電話゛の文字。
日時は・・・。
あの日。
あのホテルにいる間・・・。
まさか・・・そんな。
ホテルを出た後、ハイヤーの中で確認した。
待受画面に着信のマークはなかったはずだ。
けれど・・・。
「まさか・・・。」
残る着信歴。
だが、着信音を聞いた記憶はない。
考えられるのは、バスルームでの僅かな時間。
二台の携帯を枕元にあるテーブルの上に置いていた。
あの貴女(ひと)がよく口ずさんでいた歌。
静かに流れる着ウタ。
聞いてない。
私は聞いてない。
では・・・。
まだ日本にいるはずの女に電話した。
女は言った。
寝ぼけていて、条件反射的に出てしまったの。
無言電話だったわ。
間違い電話だと思って何も言わなかったけど。
どうかした?
頭の中が、真っ白になった。
ホテルのロビーで受けたスティーブからの電話。
歯切れの悪い会話。
何てタイミング。
間が悪いにも程がある。
いつもいつも後悔ばかり。
いつまで続くのか。
私が、壊れてゆく。