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どこまでも続く黒い台地を、男はただひとり歩いている。
時折、汚れて乾いた両の手を見下ろしながら。
ただ、男は歩いている。
無論、ただ歩いているといっても目指す地は、ある。
その地が存在しているかどうかは別として。
そこに辿り着いたとして、何がどうなるものでもなかったが。
それでも、男は、病んだ身体に鞭打って、ただ前に進む。
風が噂を運んできたから。
崩壊してしまったこの世界に残る人間の数など極僅かではあったが。
それでも、どこからか噂は生まれ、風はそれを運ぶ。
『西の果てに黒き台地あり。
その台地の果てに深き裂け目があり、この陽の射さぬ暗き地の底からは絶えず水音が聞こえ、不思議な事に、この光も届かぬ地の底を吹き抜ける風は、時折、甘き果実の香りを地上に運んでくるらしい。』
人は、この噂に我を忘れて群がり、みな西を目指しているという。
だが、男は少なくともこの二年、人間の姿を見た事はない。
噂など、もとより眉唾。
それは男にも解っている。
しかし、それでも男が西に向かったのは、風の噂の中にたったひとつの光を見つけたからだ。
『されど、この台地の裂け目に降りて戻った者はいない。
否。
この裂け目が本当に存在しているのかも解らない。
だから、本当にこの地に辿り着いた者がいるのかも解らない。
第一、水の女神に呪われたこの世界で、水音など聞こえるはずもない。
当然、果実など・・・。』
けれど、と噂は続ける。
『黒き台地の裂け目から、時折、本当に時折。風に乗って、美しい歌声が・・・。』
その噂に、男は死の床から這い出たのだ。
かつて神の剣と呼ばれた愛刀ひと振りだけを片手に。
汚れて、裂け綻びて、何の役にも立たなくなった軽武装具を身に纏い。
数日ぶりに一欠けらの干し肉を口にして。
旅支度など何もない。
持てる物など何も。
時には戦場で、時には深き森や山々や水場で、人や獣を斬る為にあった剣は、今、地に埋もれた僅かな植物の根や、泥水を掘り出す為に使われ。
人の生活と共あった馬も、猟犬も、命あるものすべてが食となり。
大河が、小川が、泉が、池が。
湖も井戸も何もかも。
水に連なるものはすべて世界から奪われた。
世界を囲う海は、元より硫酸だ。
世界が創造されたその時から。
そもそも、男にとって崩壊したこの世界で生きる事になど何の意味もない。
奇跡など、今さら望みもしないし、祈ったところで一度狂ってしまった運命は変わらない。
大切なものは何もかも失った。
楽しかった日々。
友と笑い合う、そのささやかな時間が幸福というものなのだと知ったのは、すべてを喪ってからだった。
男は、ふと立ち止まると、己の手首を噛んだ。
途端、どろりと流れ出た血を啜り、咽喉の乾きを誤魔化した。
生きる事になど最早意味はない。
己の存在を放棄して、男は死の床についた。
その筈だった。
風が、あの噂を運んで来るまでは。
「姫・・・。」
生き延びよっ!!
最後に聞いた。
少女の叫び。
ディル・・・ここにいたのか?
己の名を呼ぶ、幼い声。
美しいその音が、今も、男の耳に残っている。
「姫・・・。姫は、何処に・・・。」
序章 完