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さよなら・・・。
言葉に出来ない思いを込めて、小さく小さく頭を下げた。
戸惑い、後を追って来る和己さん。
その前に、飯田さんが立ちはだかっている。
さよなら。
ありがとう。ほんとにほんとに。ありがとう。
初めて家族という物を知った。
誰も私には与えてくれなかった物。
優しい時間。
『人さまの顔色見ると、やめんね。』
咲おばあちゃん。
いつも人の顔色を見るのが私のクセ。
そんな事しなくて良いって。
ちょっと怒って。
ねぇ、おばあちゃん。
私、笑うのって、とっても難しいって思ってた。
でもね。
美味しいぬか漬け、食べるだけで笑顔になれた。
二人でぬか床混ぜて、きゅうりと、なすと、人参と。
楽しかった。
初めてだった。
ごめんね。
もう、傍にいられないけど。
ありがと。
和己さんも、典子さんも、お父さんも、お母さんも。
優しくて、暖かくて。
きっと、おばあちゃんの家族だからだね。
和己さんは良い人。
だから、きっと幸せになれる。
幸せは、いつも傍にあるものだよ。
だって。
和己さんの傍には、いつも美幸さんがいる。
エレベーターのドアが開いて。
スティーブが私を抱き上げたまま、少し前屈みになって。
乗り込んで。
私、最後の一瞬まで和己さんの顔を見てた。
ちゃんと笑えたかな。
ちゃんと、ありがとうって伝わったかな。
だって私。
笑うの下手だから。
エレベーターのドアが閉まる瞬間。
飯田さんが振り向いて、大丈夫ですよ、って。
笑ってくれた。
「姫ちゃん。」
囁くように呼ばれて、貪るように接吻けられて。
私の中で、時が、戻る。
奪うような接吻けをするのは、ウィンだけだと思ってた。
エレベーターのドアが再び開くまでの、ほんの数秒だったけど。
暖かい腕の中で、意識が飛んだ。
タクシーの中ではずっとスティーブの膝の上でうとうと。
次に目覚めたのはヘリの爆音で。
ずっとずっと膝の上。
もこもこのチンチラ。
あったかいや・・・。
ホテルの屋上にあるヘリポートに着くと、支配人が待ち構えていた。
高級リゾート地にある某最高級ホテルは世界に幾つもあり、その顧客データを共有
している。
そして、このホテルにとって特別客であるスティーブは顔パスだ。
直接部屋へと案内され、そのまま支配人からカードキーを受け取った。
病院を出てホテルの部屋まで。
私は一度もスティーブの腕から離れる事無く、一歩も歩かずにソファへ。アンティーク
調にデザインされたシックな調度品はどれも逸品。
スティーブは慣れた足取りでキッチンに立つと、私の為に蜂蜜入りのミルクを温めて
くれた。
ゆっくりとゆっくりと胃に流し込む温もり。
正直、ホッとした。
何にホッとしたのかも解らないけれど。
ただ、無性に安心している自分がいた。
美しいテーブルを挟んでソファに座り、しばらく私の様子を見ていたスティーブは、ふ、
と立ち上がると私の前に来て床に膝を付いた。
「脱いで。」
「・・・。」
「全部。見せて。」
「スティーブ。」
大きな両の手が、私の頬を優しく包む。
私は、小さく頷いて立ち上がると、そっと汚れたTシャツの裾を掴んだ。
躊躇いがないのは、もう、スティーブにはすべてを見られていたから。
何もかも、知られていたから。
それでも、一瞬下着を脱ぐ事に躊躇うと、スティーブの手が伸びて来た。
私のすべてが、碧い瞳に晒される。
スティーブは、優しく私の躰を抱き上げると、バスルームに誘(いざな)った。
声音 Ⅵ 。
この部屋に、他人が入るのは実に一年振りだった。
飯田は家族のようなものだから例外として。
色とりどりの花を抱えた女。
当然だ。
この女は花屋だ。
スティーブからの連絡が絶たれ、既に二週間。
突然来客を知らせた電子音に、一瞬、心臓が跳ねた。
「お久しぶりですね。ディアン。」
一人では持ち切れなかったのか、アルバイトらしき女が二人、顔を赤くして部屋に入
って来る。初めて見る顔だが、そんな事はどうでもいい。
女達が両手に抱えた花、花、花。
懐かしい光景だった。
『綺麗・・・とっても綺麗ね。ディアンさん。』
まだ、私達の関係が狂ってしまう前の記憶。
姫は、綺麗と言って喜びながら、でも、決して花に触れる事はなかった。
美しい花々をリビングの大きなテーブルに置くと、二人は帰った。
残ったのは花屋の店長。椿文子(つばきあやこ)。
ウチで運転手をしている椿彰(つばきあきら)の双子の妹だ。
この部屋の花は、この女がずっと活けていた。
姫が行方不明になってからも、半年ほど。
花が好きだった姫の為、ウィンが一週間に一度、室内すべてに花を活けさせていたの
だ。ずっと。
だが・・・なぜ今。
「スティーブから依頼があったの。今日から、以前のように花を活けてくれって。」
「・・・スティーブが。」
「ええ。彰から連絡があって、私、璃羽ちゃんに会ったわ。」
「・・・っ!!」
「元気そうだった。」
オフ・ホワイトのリムジンと共に姿を消した椿・・・。
姫の所に呼ばれていたのか。
「もう少ししたら、璃羽ちゃん、帰って来るそうよ。」
文子の声が、なぜか遠くから聞こえる。
「病院の予約を頼む。スティーブからの伝言。」
「・・・。」
「そう言えば解るって。確かに伝えたから。」
「ああ。」
やっと。
やっと私の罪が・・・裁かれるのか。
「バカラの花瓶、どこだったかしら?」
「・・・今・・・出す。」
遠くに文子の声を聞きながら。
私は久しぶりに物置となっている小部屋のドアを開けた。
典子さんの声が遠くに聞こえる。
言わなくちゃ。
もう帰るのだと。
迎えが来るのだと。
言わなくちゃ。
膝を抱えたまま、顔を上げる事も出来ない私。
優しく抱き締める典子さんの腕。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
そして。
ありがとう。
優しくしてくれて。
親切にしてくれて。
大切にしてくれて。
必要としてくれて。
ありがとう。
本当に。
ありがとう。
言葉に、ならない。
古びたエレベーターが開く。
その瞬間、空気が変わる。
私には解る。
見る必要もない。
私の過去。
逃げても追って来る。
解ってた。
きっと、逃げられはしない事。
死んでも離さないよ、璃羽
言葉の鎖。
私は最初から囚われ人。
コツン。
その足音だけで。
パサリ。
その衣ずれの音だけで。
「璃羽様・・・。」
飯田さんの声がする。
「よく・・・御無事で・・・。」
優しい声。
いつも温かい声。
でも、私を抱き締める腕は、飯田さんじゃない。
戸惑う典子さんの腕が、逞しく温かな腕に変わる。
しっとりと落ち着いたピュア・ローズの香り。
スティーブの為に調合された甘く切ないそれ。
私が安心出来る場所に、いつも香る薔薇。
来て・・・くれた・・・。
私の所に・・・。
勝手なお願いばかりの私。
それでも。
来てくれた。
「ばか・・・。」
心配させて。
耳許で囁く。
低く甘い声はテノール。
「姫ちゃん。」
私の頬を流れる涙。
拭う唇の感触。
躰を震わせて。
必死で見上げる。
黄金の美貌。
太陽の神様みたい。
「璃羽様。」
視界の片隅。
黒いカシミヤのロング・コートが揺れる。
飯田さんのスーツ姿。
小脇に抱えたノートパソコン。
白髪が増えた。
私のせいかな。
飯田さんの微笑みに背を押され。
最後の我儘。
「スティーブ・・・咲おばあちゃんが・・・。」
震える声で。
最後の勇気で。
「脳の腫れが酷くて・・・骨・・・外したって・・・。」
子供みたいに泣きじゃくる。
ボロボロでくしゃくしゃ。
私の顔。
「病院・・・見つからないって。」
タ・ス・ケ・テ。
スティーブの首に、縋り付いた。
抱き締めてくれる。
強く強く。
その温もりだけが頼り。
薔薇の香りに包まれる。
スティーブの、匂いだ・・・。
安心したのかな。
腰が抜けちゃったみたい。
大きくて暖かいストールに包まれる。
これ、チンチラだ。
変な事に詳しくなった。
過去の残骸。
片腕で軽々と私を抱き上げる長身。
黒い鞣革(なめしがわ)のロング・コート。
襟と袖先と裾だけクロコダイル。
スティーブは個性の塊。
変わってない。
少し、安心した。
エレベーターを降りた瞬間から、もう記憶がない。
立ち尽くす飯田の脇を擦り抜け、ただ、歩いていた。
見知らぬ女に背を抱かれて、泣き腫らした顔で、姫ちゃんはオレを待ってた。
不安に押し潰されそうな瞳。
近づくと、女が驚いたように腰を浮かせた。
訳も解らず、薄暗い廊下は凍りつく。
そんなのは、どうでもいい事だ。
抱き締めた躰が冷たい。
雨に濡れたのか?
濡れた頬に口付けた。
震える躰。
小さくて、冷たくて、でも、生きていてくれた。
それだけで充分だ。
必死の眼差し。
助けて、と。
縋り付く細い腕。
大丈夫。
その為に来た。
軽い躰を抱き上げた。
ストールを持って来て正解だった。
ふかふかでもこもこのチンチラは姫ちゃんのお気に入り。
抱き包むには丁度いい。
「飯田。K大病院の日向教授に電話。」
「はい。」
「海外の学会に行ってるかもしれないから、オレの名で呼び戻せ。」
「はい。」
飯田の返事に迷いや淀みはない。
腕の中で、オレの言葉に首を小さく傾げる姫ちゃん。
ちょっと説明を加える。
「K大病院の脳外科は日本有数の設備と経験を誇ってる。日向教授はその代表だよ。
姫ちゃんの大事なオバアチャン。きっと助けてくれる。」
「ほんと?」
「ああ。でも、日向教授が最善を尽くしてくれて、それでもダメだったら諦めて。彼以上
の脳外科医なんて、世界中捜してもムリ。」
「うん。」
「いいコ。」
飯田はシステム手帳から目的の番号を探す。
ここにはICUがあるから電子機器の操作はご法度。
電話は廊下の隅にあるボックスの中で。公衆電話もあるが、携帯も可。だが、律儀な
飯田は公衆電話にしたらしい。
五分ほどですべての要件を済ませ、ボックスから出て来た。
その間、オレは周囲の気配をすべて無視。
混乱する視線など無視無視。
姫ちゃんは大人しい。
濡れた頬、赤い耳朶、冷たい項にいっぱい口付けをする。
「教授はドイツで学会だそうです。既に終えているのでいつでも帰れると。」
「ウチのジェット機で某基地まで送って。日本の空港は頭硬いから。」
「はい。そのように手配しました。」
「じゃ、オレは姫ちゃんとヘリでホテルに向かうから。」
「はい。ホテルにはウチの車も呼んであります。運転には椿を付けました。」
「ああ。タクシーは貸し切りだな。とんぼ返りさせる。ヘリは使う?」
「そうですね。ヘリは必要かと。しかし、璃羽様が使うのでしたら・・・。」
「オレはどうでもいいの?」
「いえ。拗ねないで頂きたい。言葉の綾ですから。」
「そお? 暫くホテルから動かないよ。」
「では、使わせて頂きます。」
飯田との会話はラクでいい。
無駄がないから。
ここからヘリのある飛行場までタクシーで一時間。
ホテルまでヘリで30分。
寝るな、姫ちゃん。
「飯田。後は任せる。報告はオバアチャンの転院の目途がついたら直接ホテルで聞く。」
「解りました。」
「費用は幾ら掛かってもいい。姫ちゃんの望むよう取り計らってくれ。」
「はい。」
さて、用は済んだ。
姫ちゃんも取り戻した。
後は・・・ディアン、か。
ま、アイツには良い薬だ。ほっとこ。
混乱した視線が背に突き刺さる。
特にあの男、何だ?
オレが何か言う前に、姫ちゃんが「寒い・・・。」と呟いた。
早くホテルで休ませてやらないと。
「飯田。」
ちょっとイラっとして呼んだ。
心得てます、と無言で視線が返って来る。
姫ちゃんは、多くの視線に沈黙したまま。
オレの腕に抱き上げられたまま。
ただ、エレベーターに向かうオレの肩越しに。
ペコリと頭を下げた。
飯田に下げたのか。
それとも、不快な視線の主にか。
どうでもいい。
そんな事。
今は。
この腕の中に姫ちゃんがいる。
それだけが、真実。
休憩室の窓の外。
灰色の空にぽっかりと白い雲。
休憩室の外。
集中治療室の前の椅子に座って、和己さんが泣いている。
隣には美幸さん。
優しく和己さんの背を撫でながら、唇を噛み締め頬を濡らす。
医師が言う。
「年齢が」
「障害が」
「設備が」
何もできない、と。
まるで諦めろと言っているよう。
何とか助けたい和己さんと、悩むご両親。
私は第三者。
何も言えない。
スティーブが来ても、助けてあげられるか解らない。
金銭的な問題だけではなく、咲おばあちゃんの命の問題。
受け入れ先の病院が見つからない今、お金は然程の問題じゃない。
脳の腫れが引いても、その後は?
この病院の設備では、その後がない。
地方の病院に、脳外科があっただけでも奇跡だ。
けれど、医師は常駐ではない。
地方の苦しい財政では、週に三日、医師を確保するだけでも大変なのだ。
何も出来ないまま少し離れた椅子で蹲っていた。
ふと、エレベーターのドアが開いて、典子さんがやって来る。
和己さんのお姉さん。
金策に失敗したのだろう。疲れた顔をしていた。
ご主人は普通のサラリーマン。そのご両親は長男夫婦と同居する為に二世帯住宅を
建てている。典子さんのご主人は二男だ。
何とか50万円を貸してもらったというが、結婚して6年。子供の出来ない典子さんは
肩身の狭い思いをしたろう。
「こんな事になってごめんね。」
私の隣に座った典子さんが、小さな声で言った。
今時珍しいほど仲の良い姉と弟。
私には解らない家族の絆。
「カズ。本当にりうちゃんと結婚したかったの。それで、頑張ってたの。」
「・・・。」
「だからお父さんも、トラクター買ったりして。仇になっちゃったね。」
「典子さん・・・。」
「ごめんね。りうちゃんの負担になる事ばっかり・・・。」
「私・・・結婚は・・・出来ません・・・。」
「解ってる。でも、カズは諦めてないの。時間を掛ければって信じてる。」
朴訥な姉弟。
私はまた、大切な人を裏切って逃げるのだ・・・。
「カズの傍にいてあげてね。」
それは、無理。
もう、私に自由を生きる時間はない。
膝を抱えて、必死に涙を堪える。
それでも、言わなくては。
「ごめんなさい・・・。ごめ・・・。わた・・・し。もう・・・。」
なぜだろう。
いつもいつも。
私が泣いていると、彼は現れる。
私の心が壊れる寸前に。
その大きな手で。
私の心を掬い上げる。
大切な大切な。
ひと滴の涙を護るように。
その。
両手で。
古びたエレベーターが。
私の過去を、運んで来た・・・。
誰を抱いても、満たされた事がない。
誰に愛されても、誰に求められても。
何を与えられても、何を手に入れても。
満たされない。
満足出来ない。
祖国の家・・・と呼ぶには巨大過ぎる城のような邸(やしき)で、スティーブと二人巨木を
見上げる。
今年も美しく咲いた。
満開の桜。
この時期だけは、私達は何処にいても帰って来る。
ウィンもそうだ。
決して桜に近づきはしないけれど、帰って来る。
どれほど仕事が忙しくても。
スティーブが自慢の腕を奮い、最高のワインを傾ける。
戦闘機のライセンスが欲しいと、突然空軍に入隊したスティーブ。
もう、除隊したという。一年弱。
ライセンスだけが目的。愛国心なし。
それでいい。
二人揃うと仕事の話。女の話。馬の話。
乗馬は二人共通の趣味。
アラブ種は小柄だが毛並みは世界一。
女に苦労した事は・・・ある。追われる追われる。逃げた逃げた。
笑話。
株と為替。変動に頭痛。
世界的不況? 私達には関係ない。
満開の桜。
匂いのない花。
散り急ぐ花。
夜桜は最高。
楽しかった十代。
それ以前はない。
養子になった二人。
過去など忘れた。
二十代。
大学なんてつまらない。
世界各国飛び回る。
地球は狭い。
空は繋がってる。
実感。
楽しかった。
何処へ行っても注目の的。
疲れなんて感じる暇はない。
色々な国で、色々な肌の色をした女を抱いた。
愛した事はない。
女なんて、みんな同じ。
誘って来る。
自信過剰。
それでいい。
面倒な女は避ける。
当然。
避妊?
当たり前。
どうでもいい女に種なんてくれてやる必要が何処にある。
財産狙い。
眼の色が違う。
女なんて、どいつもこいつも。
色と欲。
金と宝石。
次の約束?
する訳がない。
自宅に呼べ?
二度と会わない。
それが常識。
そして日常。
なのに。
そのすべてが否定された。
たった一人の存在によって。
「璃羽だ。私の大切な姫君だよ。」
ウィンの隣に、大きな瞳を濡らしたひとが立っていた。
少女のよう。
長い黒髪を首の後ろで束ねて。
ポツンと立っていた。
心細げに。
所在なさげに。
『日本のおとぎ話に登場するプリンセスは。
みんな長い黒髪をしてるんだ。』
子供の頃、ウィンが言ってた。
邸の書庫に並ぶ日本の絵本。
不思議なドレスを着たプリンセス達。
月に帰る。
鳥に変わる。
最後はさよなら。
どうして幸せになれない?
『それがすべてではないよ。きっと。』
ウィンの声は、とても寂しそうだった。
雪が降ってる。
音もなく、雪が。
冷たく硬い床から重い身体を引き剥がす。
いつまでも休憩室で座り込んでいる訳にはいかない。
スティーブは「すぐに行く」と言ってくれた。
彼の言葉に、いつも嘘はない。
けれど・・・助けてくれるだろうか。
咲おばあちゃんの為に、お金を出してくれるだろうか。
スティーブにとっては会った事もない他人だ。
返すと言っても、私にその当てがある訳じゃない。
一生働いて返せる額かも解らない。
それでも、助けたい。
部屋の外で声がする。
和己さんとご両親だ。
廊下で何かを話し合ってる。
私が行ってもいいだろうか・・・。
迷っている間に、ドアが開いた。
美幸さんだった。
「まだ休んでいなさい。りう、酷い顔色よ。」
そう言うと、呆然と立ち尽くしていた私の肩を抱いてソファに座らせた。
あちこち綻びた、古い二人掛けのソファに美幸さんと腰を下ろした。
この部屋は、華やかな美幸さんには似合わない。
何だか、切ない。
「いよいよダメかもしれない・・・。」
「え・・・。」
「金銭面より何より、受け入れ先の病院が決まらないの。私も、父に頼んでは見たんだ
けど。知り合いの伝手とか。でも・・・。」
「・・・ど・・・うしてですか。」
「おばあちゃんの年齢もあるし。もう、頭がい骨外してるし。多分、障害も残るだろうって。
おじさんもおばさんも迷ってる。障害が残ったら、それでなくても家族でギリギリの農家
だもの・・・誰かが付添をしたら、何かを諦めるしかないわ。」
「諦める・・・。」
「多分。牛とか。生き物の世話は大変だもの。」
「そんな事したら。」
「収入は激減するわね。和己のトコは、仔牛売ったりして冬場の窮状を凌いでいるから。
ウチで援助してもいいけど、結局は借金になるし。」
その上、私もいなくなったら・・・確実に人手が足りなくなる・・・。
「ねぇ・・・和己からプロポーズされたんでしょ?」
「・・・お断りしました・・・。」
「どうして? 和己はいい人よ? 私のせい? それとも、何か結婚出来ない理由でも?」
「色々・・・事情があって。」
「好きな人がいるのかな?」
「・・・はい。」
「そっか。でも、どうしてそれを和己に言わないの? 彼、悩んでたわよ?」
幼馴染だけあって、和己さんは美幸さんと仲が良いけど、そんな事まで話してたんだ。
もしかして、他人が思うほど、この二人の仲は恋愛から遠いのかもしれない。
「私達ね。本当は結婚する予定だったの。」
「え・・・。」
「でも。ウチ、大きな農家だけど、その分、借金も多くてね。父に反対されたの。父は、
私を町の代議士さんの息子と結婚させるつもりだったのよ。今、この町を「癒しの町」
として観光開発してるでしょ? その旗振り役の代議士さん。お金持ち。」
「・・・。」
「和己。私に駆け落ちしようとまで言ってくれたんだ。もう、五年も前だけど。」
「どうして・・・。」
「駆け落ちしなかったのか?」
「はい。」
「当時、私はお嬢様で通っていてね。この辺じゃ結構な顔だったの。女の子の憧れの
的ってヤツ。ウチに借金がある事も、誰も気づきさえしなかった。」
「・・・。」
「怖かったの。駆け落ちして、もしも落ちぶれたら・・・って。笑い者になりたくなかった。
見栄っ張りだったの。それで、約束をすっぽかしちゃった。」
じゃあ、和己さんは・・・。
「和己は理解してくれた。大人だったのね。結局、何もなかった事にしてしまったの。」
だから、和己さんの他のお友達は何も知らないんだ。
そうでなかったら、二人が結婚するなんて噂、する訳ない。
「でも、笑い話よ。その代議士さんが旗振りしていた観光事業は大失敗。父の目論見
も大誤算。閑散とした街を見たでしょ? ウチの事業も大打撃よ。罰が当たったのね。
優しい和己を裏切ったりするから。くすくす・・・。」
美幸さん、哀しそう。
きっとまだ、和己さんの事が好きなんだ。
だから、結婚しないで、今も友達を続けてるんだ。
「あなたは、チャンスを逃しちゃダメよ。」
「・・・。」
「ここにいるって事は、その好きな人とは結ばれない事情があるんでしょ? 全部、捨て
て来たんでしょ? だったら、新しい人生を歩かなくちゃ。きっと後悔するわ。和己は、
いい人よ。苦労してでも付いてゆく価値のある人。勇気出して。」
がんばって。美幸さんは最後にそう言って部屋を出て行った。
ドアを開けた瞬間、和己さんの怒った声が聞こえた。
ばぁちゃんを諦めろって言うのかっ!!
そう言って、怒ってた。
再会 Ⅴ 。
閑散とした街中を、タクシーで走り抜けた。
流石の飯田にも、この街で黒塗りのハイヤー調達は無理だったようだ。
隣町の真似をして観光開発に乗り出したようだが、こちらは失敗したのだろう。高級
リゾートとして名の売れた隣町からすると、随分と寂れた印象が強い。
元より、観光開発には金が掛かる。最初にどれだけ投資出来るかで結果は決まる
ものなのだ。
狭い車内で足を組む事も出来ず、ずっと窓の外を眺めていた。
この街の、更に山近くで姫ちゃんが暮らしていたなんて想像がつかない。
最後に逢った姫ちゃんは、病的なほど痩せ細っていた。帰国の準備が整ったら、
すぐに病院で検査を受けられるよう手続きも済ませていたが・・・。
あの時、さっさと入院させておけば、こんな事にはならなかっただろうか。
そうしたら今頃、可愛い子供がオレにも甘えてくれただろうか。
産まれていたら・・・まだ一歳にもならないから甘えるのは無理か。それでも、この腕に
抱かせてもらう事は出来たはずだ。
姫ちゃんとディアンの子供なら、さぞ可愛い顔をしていたろう。
もう・・・夢物語だが・・・。
雪が降っている。
粉雪だ。
雨が雪に変わる前に辿り着きたかったが、無理だったか。
さぞ、心細い思いをしているだろう。
ディアン・・・。
あの電話の調子では、姫ちゃんから連絡を受けていないのだろうな。
真っ先に連絡していると思ったが。
やはり、あの過去が躊躇わせてしまったか。
誰よりも傷つき、辛い思いをしたのは姫ちゃんだと言うのに。
もっともっとオレ達を責めていいのに。
卑怯だぞ。自分だけ逃げるなんて。
残されたオレ達が、どんな思いをしたか。
ああ、そんな事より。
本当に無事だろうな。
怪我なんてしてないだろうな。
この一年半に何があったって構わない。
とにかく、この腕に戻って来るのならそれでいい。
「スティーブ。そろそろ着きます。」
「解った。」
「お願いですから、怒らないでくださいよ。」
「誰が怒るか。」
怒れるモンか・・・。
走り抜けた街の中に、その病院は静かに建っていた。
寂れた街の印象そのままに。
声が聞きたかった。
古い病院の中に置かれた公衆電話の前。
スティーブの声を聞いた途端、ディアンさんの声が無性に聞きたくなった。
憎まれている事も、嫌われている事も解っていたけれど。
冷たく皮肉な声しか聞いた事はないけれど。
それでも・・・。
くしゃくしゃなメモを眺めて、随分迷って。
声が聞けたら、それで良かった。
でも・・・。
『ハロー?』
綺麗なソプラノだった。
もう、あの携帯は手放したのだろうか。
そうかもしれない。
けれど、そうでないのかもしれない。
何も言えず、受話器を置いた。
これが当り前の現実なのだと、自分に言い聞かせた。
すべては過去で、終わった事なのだ。
もしも。
もしも子供が産まれていたら。
少しは彼に似てくれただろうか・・・。
真っ直ぐなプラチナブロンドと翠の瞳。
白人特有の肌。
きっと彼に似たら、それはそれは美しい子供だっただろう。
男の子だったのだろうか。
それとも、女の子だったのだろうか。
三か月だった。
きっと、あの夜の子だ。
雪が降ってた。
粉雪だった。
積もらない雪。
朝には融けて消えてしまう雪。
まるで私のような雪・・・。
『約束します。彼が亡くなった後も。貴女には何不自由のない生活を保障します。』
知ってた? ディアンさん。
私、貧乏だったけど、不自由なんてしてなかったよ。
『私に出来る事でしたら、何でも言ってください。衣食住、何でも。欲しい物、必要な物、
すべて揃えます。ああ、カードを作らせました。使用限度はありませんので、ご自由に。』
でも、独りなんだよね。
ウィンが死んだら、私はひとりぽっちになるんだよね。
雪が降ってた。
出窓にはスティーブが買ってくれた小さな植物。
偶然、信号で止まった黒塗りのリムジンの窓から見つけた小さな花屋。
その店の前に色々な植物と一緒に置かれていた。
1コ、480円。
ただ見ていただけなのに、後日、スティーブがプレゼントしてくれた。
嬉しかった。
スティーブだけは私を見ていてくれる。
理解してくれる。
私には、それで充分だった。
外を眺めたまま、懸命に言葉を探した。
ディアンさんと話す時、私はいつも言葉を探し、選び、口にする。
何もいりません。
すべてが終わったら。
何もかも終わったら、また仕事を探します。
一からやり直すつもりです。
大丈夫です。
独りで生きる事には慣れてますから。
『嫌味な貴女(ひと)ですね。まあ、こちらに非があるのですから構いませんが。
遠慮してどうします。これからの人生は長いですよ。自由に楽しく生きた方が得だ。
そうは思いませんか?』
私は・・・。
『すぐに気持ちなど変わりますよ。今は、贅沢に慣れていないだけだ。
慣れてしまったら、もう手放せなくなる。自己犠牲の精神など、何の価値もない。』
淡々と言い捨てる。
その翠の瞳には蔑み以外何も映さない。
私の事など、見たくはないだろう。
昨夜のウィンは酷かった。
まだ、痛む。
心も躰もバラバラになりそう。
『寒いですか?』
痛む躰を抱きしめた私に、彼は意味深な視線を向けた。
スティーブ・・・スティーブ・・・早く帰って来て。
怖いよ。痛いよ。苦しいよ。
スティーブ。
私が、壊されていく・・・。
声音 Ⅳ 。
スティーブとの連絡が途絶えて十日が過ぎた。
未だ、何処で何をしているのか解らない。
仕事も放り出して、と言っても、私達の場合は会長職のようなもので、余程重要な案件
でもない限り自ら動く必要はない。
それでも、これほど長く仕事から離れるなど彼らしくない事は確かだ。
ウィンの養子であった私達は、彼の死と共に莫大な財産と多くの会社を引き継いだ。
会社の殆どは筆頭株主という立場だけを残して手放し、別荘を始めとする世界中に散ら
ばる財産も必要最低限の物だけを残し現金化した。
財産の整理はウィンが生前から始めていたが、何しろ莫大過ぎる。各国の法律も絡む
大仕事だっただけに、弁護士だけで百人を超えた。その報酬だけでジェット機が何機購
入出来ただろう。
尤も、そんな些細な事など私達にはどうでも良かったが。
とにかく、日本へ来てからの私達は多忙だった。
それをひた隠しにして、ウィンと残された時間を共有していた。
多くの秘密を抱えた生活は大変だったが、それでも充実した毎日だった。
璃羽と、共に暮らし始めるまでは・・・。
いつも、飯田からの電話は唐突だ。
だが、今回ほど待ち望んだコールはなかっただろう。
けれど、この電話が私を地獄に突き落した。
何処までも運命の女神は、私に背を向けたいらしい。
「飯田・・・飯田なのか。」
『はい。』
「今、何処に・・・。」
『スティーブの依頼で地方に。』
「・・・何処だ。」
『後日、スティーブから連絡があるかと思います。』
「・・・。」
『ディアン?』
「姫は・・・無事か。」
『はい。』
やはり、あの電話は姫だったのか・・・。
あの日、あの時。偶然などあり得ない。
淡々とした飯田の声が、何処か物悲しく聞こえたのは空耳ではなかっただろう。
「・・・解った・・・スティーブに、連絡を待ってると伝えてくれ。携帯に連絡しても、アイツ
出ない。』
『はい。』
「それで。用件は?」
『一年前の・・・あの産婦人科の話ですが・・・。』
今になって、なんだ・・・?
産婦人科とは、姫が私の子供を中絶した病院の事か?
ウィンはがん治療の後遺症で子供が出来ない。
姫の子供は、間違いなく私の子だ。
「・・・。」
『ひとつ、貴方にだけ言ってない事が。』
「な・・・にを・・・。」
『璃羽様の子宮に異常があったそうです。無茶な性交の傷の他に・・・恐らく・・・ウィン
の・・・抗がん剤の影響ではないかと思われる後遺症が・・・。』
「・・・。」
『本人にも、伝えていないそうです。後日、必ず来院するよう言ったのに、現れなかった
そうですから・・・。』
「・・・それで・・・。」
『手術が必要になるだろう、と。』
『精密検査の結果。もしも状態が悪ければ、子宮は・・・全摘だそうです・・・。』
知らなかった真実。
知りたくなかった現実。
これは、彼女を泣かせ続けた罰だ・・・。